2012年5月21日月曜日

ヴィヨンの墓碑銘(首吊りのバラード) [翻訳・翻案]

フランソワ・ヴィヨン(14311463

[L’EPITAPHE EN FORME DE BALLADE Que feit Villon pour luy et ses compagnons, s’attendant estre pendu avec eulx.翻訳・翻案]


俺たちの後を生きていくおまえさんがたよ。
冷たい心で俺たちを見てくれるな。
俺たちを哀れんでくれるなら、神さまは、
おまえさんがたにもすぐに慈悲を垂れてくださろうから。
俺たち、五人、六人とここに吊るされて、
これまで蓄え過ぎてきた贅肉なんぞ
とっくに崩れ落ち、腐り切って、
で、俺たち、死骸は、灰に、埃にとなっていくところ。
誰ひとり、俺たちの不幸を笑える者はいまいよ。
な、祈っとくれ、神さまに、俺たちみんなをどうぞお許しください、と。

同朋よ、兄弟よと、おまえさんがたを呼んでるんだからさ、
恨まないでおくれよ、裁かれて殺された俺たちのことを。
人間、誰もがちゃんとした分別を持ってるわけじゃないってのは
な、重々ご存じのはずじゃないかさ。
まあ、許しとくれよ、済まないとは思うけどね。
死んじまってて、もう、聖母さまの息子さんのとこにいるのだし、
この方のお慈悲が枯れちゃあ、参っちゃうし、
地獄の稲妻からも守ってもらわにやならんしね。
ああ、死んじまって、怖いものなしの俺たちだけども、
祈っとくれよ、神さまに、俺たちみんなをどうぞお許しください、と。

雨は俺たちを洗い、ぐちゃぐちゃにし、
今度は太陽で乾かして、真っ黒にしやがる。
カササギや鴉が目を突っつき、抉り、
髭やまゆ毛までむしり取りやがる。
休める時なんぞ、ひと時もありゃしない。
あっちの方へ、こっちの方へと、吹き動かされ、
気まぐれな風のなぶり者。
小鳥たちにはチクチクと、指抜き以上に突かれて。
ま、俺たちの仲間にはお入りになるでない。が、
祈っとくれよ、神さまに、俺たちみんなをどうぞお許しください、と。

万物を統べなさる帝王のイエスさまよ、
地獄の旦那が俺たちの主になるってのは、やめさせておくんなさい。
あの旦那にや用がないし、ズルもきかねえし。
おまえさんがた、人間たちよ、冗談ごとじゃあないんだぜ、こりゃあ。
祈っとくれよ、しっかり神さまに、俺たちみんなをどうぞお許しください、と。




15世紀フランスの放蕩無頼の大詩人ヴィヨンと比べると、後世のたいていの詩人は弱々しい文弱の徒にしか見えなくなる。あるべき詩人の決定的な姿、型がヴィヨンにはあり、これと比べればランボーさえ卑小なオタク少年に見える。生活の仕方や立ち居振る舞いのエピソードや伝説がそう思わせるのではない。詩自体の調べが、言葉の流れが、内容の持って行き方がそう思わせるのだ。ヴィヨン、ロンサール、ユゴー、ボードレールがこうした真正詩人の系譜で、それ以外はどうも小細工で誤魔化しているのでは、という思いにさえなる。マロ、ドービニェやデュ・ベレーも、ひょっとしたら入るだろうか。迷うところだが、とにかく、ボードレール以降は絶えてしまった。20世紀や21世紀となると、もはや見る影もない。
◆傷害事件、窃盗、強盗、司祭殺し、投獄、絞首刑宣告、恩赦、パリ追放と、フルコースの悪漢人生を送った後に歴史から消息を絶ったようだが、後世から見れば、これがなんともカッコよ過ぎる。詩人はこうでなくっちゃ。チマチマと横断歩道を渡ったり、老後の心配をしたり、なにより、自分の世評にビクビクしているような詩人にロクな奴はいないが、ヴィヨンはとにかく度外れに逸脱している。17世紀イギリスの詩人ジョン・ウィルモット卿もなかなかの無頼漢だったが、残念ながらヴィヨンほどの詩句は残さなかったのではないか。
◆とはいえ、本当のヴィヨンは、意外に臆病な青白き文学青年だったのではないか…と思わなくもない。そうした史実はないが、ヴィヨンの影のどこかに、そうしたビクビクしたところを感じる。ヴェルギリウスがたいした男ではなかったらしい、貧弱な青二才もどきだったらしいという話を聞いたことがあるが、伝説とは逆の要素をヴィヨンにも付加したいという欲望があるのかもしれない。殺人や強盗をしたからといって、源為朝なみの大丈夫の男と決まっているわけではない。フォルスタッフのようなご都合主義の悪党だったかもしれず、カッとなったはずみに盗みも殺しもやらかす情けない男だったかもしれない。シドニー・ルメットの遺作『その土曜日、7時58分(Before the Devil Knows You're Dead』(2007)でイーサン・ホークが名演した、気骨のまるでない、ぐにゃぐにゃのチンピラ男のようだったかもしれない。痩身だったか、太っていたか。髪の毛は?唇は?…たいていの詩人の顔や風体などには興味も湧かないが、フランソワ・ヴィヨンのことはいろいろと思い描きたくなる。そこまでの魅力のある詩神のひとりであることは、むろん論を待たない。



[原詩]

L’EPITAPHE
EN FORME DE BALLADE
Que feit Villon pour luy et ses compagnons, s’attendant estre pendu avec eulx.



Frères humains, qui après nous vivez,
N’ayez les cueurs contre nous endurciz,
Car, si pitié de nous pouvres avez,
Dieu en aura plustost de vous merciz.
Vous nous voyez cy attachez cinq, six :
Quant de la chair, que trop avons nourrie,
Elle est pieça devorée et pourrie,
Et nous, les os, devenons cendre et pouldre.
De nostre mal personne ne s’en rie,
Mais priez Dieu que tous nous vueille absouldre !


Se vous clamons, frères, pas n’en devez
Avoir desdaing, quoyque fusmes occis
Par justice. Toutesfois, vous sçavez
Que tous les hommes n’ont pas bon sens assis ;
Intercedez doncques, de cueur rassis,
Envers le Filz de la Vierge Marie,
Que sa grace ne soit pour nous tarie,
Nous preservant de l’infernale fouldre.
Nous sommes mors, ame ne nous harie ;
Mais priez Dieu que tous nous vueille absouldre !


La pluye nous a debuez et lavez,
Et le soleil dessechez et noirciz ;
Pies, corbeaulx, nous ont les yeux cavez,
Et arrachez la barbe et les sourcilz.
Jamais, nul temps, nous ne sommes rassis ;
Puis çà, puis là, comme le vent varie,
A son plaisir sans cesser nous charie,
Plus becquetez d’oyseaulx que dez à couldre.
Ne soyez donc de nostre confrairie,
Mais priez Dieu que tous nous vueille absouldre !

Prince Jesus, qui sur tous seigneurie,
Garde qu’Enfer n’ayt de nous la maistrie :
A luy n’ayons que faire ne que souldre.
Hommes, icy n’usez de mocquerie
Mais priez Dieu que tous nous vueille absouldre !


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